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SecondLifeっていう仮想空間の事を書いているように見せかけて、ただの日記。
脳内ストリップショー。別名チラ裏。

お店ブログ→波野家
■あ、 この手の中 残るものは何? あ、 君は今も甘え続けてる
2014.09.18 Thursday
消された続き 自分のものじゃないと
踏み続けた痛み 我が身に降り続ける
返す言葉は後悔の念の羅列
焦り狂っても全ては すり抜けてくだけ

(未練は思い上がり / グニュウツール)


 この人達の曲を聞くと、ある時期の気分を強烈に思い出します。
私はひとつの曲やひとつのアルバムを、ひたすらヘビロテするような音楽の聴き方をするので、自分の思い出と曲がすごくリンクしやすいです。巷で流行っている時期とかは全く関係がないのです。なので、○○年代のヒットチャートとかを聞いても思い出がぶわっと蘇るようなことはないのですけれどね。

 しかし、音楽って本当にすごいなあ。。。においも思い出と結びつきやすいけれど、その時期だけしょっちゅう嗅いでいた香りってあまり私にはないので、やっぱり音楽のほうが色々思い出しやすいなあ。。。と、ここまで書いて思った。私は何かがあった事より、その頃主に自分が感じていた気分のほうを覚えている。ちなみにこの曲を聴いていた頃の気分は、人生のどん底の頃の気分。あの頃はこの感じがデフォだったんだなあ、と自分の中に沸き上がってくる気分に対して思う。二度とあんな状態にはなりたくないものだと思うし、二度とあんな状態にはならないだろうなとも思う。あの頃、私は飛び級くらいの勢いで色々なことを学んだ。私の人生は、常に私の中の弱さとの戦いで、この頃の私はどうしようもない寂しさに支配されていた。寂しさを自分でどうすることも出来なかった。あの頃の飢える感じは、きっと今はもう感じることは出来ないのだけれど、飢えるとはよく言ったものだと思う。

 強烈にしんどかった。持て余しまくっていた自分の中に抱えた寂しさを、うまいこと操る術を教えてくれた人がこのバンドを教えてくれたのでした。その人はその人自身の持つ孤独に浸っていました。今考えるとそうなんだと思う。彼が本当はどうなりたかったのか、もう知る術もないけれど、本当に望んでいた事をきちんと叶えられているといいなと思う。私は彼からたくさんのことを教えてもらって、私はそれにきちんとお返しが出来たんだろうかと考えることもある。本当に大切なことを最後に学んだのです。おそらく、彼自身にはその自覚は全くないのだろうけれど。


 ごきげんよう、たいこです。


 そんなわけで、私は本当にたくさんの人たちとの関わりがあって今の自分になっているのだなあと改めて考える。一見よくないことも、もちろん両手放しでいいことだと思えることも、全ては自分の身にしてしまえ。という方針で生きています。つらい思いをしたり傷ついたりすることってすごく精神力やら体力やらを使うのだから、そんな労力を払って何も得るものがないなんてもったいない。しんどい思いし損なんて絶対したくないのです。だから、私は今まで自分に関わったすべての人に対して感謝をしています。今の自分があるのはあなた達のお陰です、と。二度と関わりたくない人も、二度と関われない人も、今現在親しく関わっている人も、大好きな人も、大嫌いな人もすべて。




 期待をするのが苦手です。期待することは怖い。私はあまり強い人ではないので、全力で期待して裏切られた時の事を考えると、危険過ぎて出来ない。自分の中にある、自分の意思ではどうすることもできないストッパー。このくらいの歳になれば、誰だって多かれ少なかれ持っているものだと思います。
 「信じてよ」とか、「甘えてよ」とか、私はたびたび言われがちなのですが。自分が甘えるとどうなるかが自分でもいやというほどわかっているだけに、ベタベタに甘えるということはなかなか出来ません。これも、自分の意思ではどうすることも出来ないストッパー。ま、これも皆が持ってるものだと思います。

 どれだけ辛いことがあっても、お腹はすくし体は汚れるし洗濯物は溜まるし働かなければ生きていくことが出来ない。ということをしみじみ感じたのは何年前だったか。それでも、どうしてもご飯が食べられなくなったことがあります。周囲の人間が心配するほど激痩せしたりしました。すぐ戻ったけど。自分に守らねばならないものがあったのが私の幸せだったところだと思います。これではいかん!と思って、それから少し地に足のつく生き方をしてきました。少しってところがミソ。

 私はいつだって不安で、いつだって周囲の人の目を気にしている。自分らしく堂々として、なんてことはきっとずっと出来ない。ただ、周囲の人の範囲がすごく狭いことは自覚している。こうして顔色を伺ってしまうことが嫌だなと思ったこともある、今だってたまにそういうことは考えるけれど、そういう性質だからこそ身についたわざだってあるのですよねえ。だから、何がよくて何がダメなんてことはきっとない。

 空気の読めない人間が倦厭されがちですが、きっと皆不要に傷つきたくないんだなあと思う。そうやって空気を読んで人の顔色を伺っていれば、その場は平穏で平和だから。それだっていい事とも悪い事とも言えない。平和なのは良いことだ。よく気がつくというのは、人の顔色の変化に敏感だということに他ならないと思う。そして、そうやって推し量るような事って、どれだけ精度が高くっても100%じゃないってこと。言葉にしないと伝わらないことはあるし、思い込みからとんでもない誤解を招くこともある。だから、あえて空気を読まない事も大切なのだ。




 「またあしたね」という言葉を聞くと結構高い確率で明日会えない。と、思い込んでいる自分がいます。なんでそういう感じになったのかも自分でわかっているのだけれど。子供っぽすぎてあまり言ったことがないこの自分のジンクス。なんだかこういう感じは一生治る気がしなくて困る。自分の中にいるものすごく幼い自分。待っているのは苦ではありません。かならず来るならば。けれど生きていると、待っているのになんの予告もなく消えるみたいなことを経験することもたくさん。だから、「またあしたね」という気休めにすがる自分と「またあしたね」を到底信じられない自分がいるわけです。

 ああめんどくさい。なんてめんどくさい。



そんなわけで、今日の日記は本当のチラシの裏。
自分感情や具体的な何かのためにわーっと沸き上がっている事をとりとめもなく書いてしまいました。
なんかこの辺まで読んでくれた人は、こんなに読みづらくて長くて暗いエントリーに付き合ってくれてありがとうございました。



ああ、ちくわの天ぷらってすごいよねって話を書こうと思っていたのにまた書かずに終わってしまった。

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