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脳内ストリップショー。別名チラ裏。

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■傷つけず 嘘つかず そんな人でありたい
2014.04.09 Wednesday
あるがまま なすがまま
人として生きたい
曲がらず 真っ直ぐに
そんな人でありたい

(あるがまま なすがまま / 楽団鹿殺し)


というわけで、土曜日に楽団鹿殺しのお芝居を見てまいりました。
劇団ではなく楽団な今回。
鹿殺しの演出家さんが海外留学中のため、脚本家の丸尾さんが演出もやって、
若手の団員をメインに作ったお芝居です。

鹿殺しは金管楽器が出来る俳優ばかりがメンバーになってたりします。
劇中で金管を生演奏したりするからなのですが、(そしてそれがすごくよい)
今回はそれがメイン。そりゃもう、らっぱ鳴らしっぱなしのお芝居でございました。

ゲストがヨタロウさんだったのですね。今回。
私はこれが嬉しくて仕方なく。
伊藤ヨタロウは、色々なお芝居の音楽なんかをやっている人です。
俳優でも出てきたりします。
私はこの人が大好きなのです。

時代は1970年台、新宿にあるジャズ喫茶マロングラッセ。
そこに入り浸っているいわゆる色々乗り遅れちゃった人たち。
常連みんなから敬愛されていたけれど、実家に帰ったきり姿を見せなくなった「教授」からの、
長い長い手紙が届いた事がきっかけで、お金のないこの人達が歩いて教授のいる伊勢まで行く!
というこのお話。

彼らの珍道中と平行して、教授の身に何が起きたのか、その長い長い手紙の内容を観客に見せていきます。
こちらの重たい教授パートがうまい具合に珍道中パートを締めていて観ていて心地よかった。

こういう人になりたい と願う教授のなりたい人像は私にもすごくすごく覚えがある感覚で。
執着を捨ててしまいたいとかっていうことは、私も昔よく考えたりしたことでした。
執着って持ってしまうとつらくてきつい。
けれど人ならば、執着を持ってこそだよなあと今の私は思うのです。
人を好きになってしまうのは、なんかもうどうしようもないこと。
好きになっちゃいけない相手ってのはいるわけですが、恋心はそんな倫理観とは全然違うルールで動いてる。

恋ってのはきっと性欲の源です。
好きで欲しくてたまらなくて、大人の言い分が通用しない感じが恋。
わかりやすく本能に根ざしているだけに、理性でどうにかするのが大変なんだと思う。
愛はまた別のところから来ていて、愛は恋愛における愛も、親が子に向ける愛も、その逆も、
友人間における愛も、全部一緒のような気がします。
愛は純度が高まると執着すら乗り越える気がしますけれど、人から執着を取り払うことなんて不可能なので
そういう純度の高い愛っていうのは人間のものではないような気がします。
やむにやまれずそういうものに変化してしまうことは、ある気がするけれど、
それでも好きな人や大切な人が失われたら、私達はその別れを目一杯惜しむわけで。
それって執着だよね。と思うと、やっぱりそういうのはないのかもしれない。

宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」は、そういう人の先にあるものに憧れた彼の気持ちのような気がします、が
やっぱり生身のあるうちはそういうものにはなれない。
なれないよね。だからまあしょうがないか。と、開き直ると大人の階段を一歩登るのではないかな。

今回の鹿殺しは、なんだかそんなお話でした。




ミキさんに勧められてポチっていた小説を読み終えました。
ちょっとびっくりしちゃったのでメモ。

私はよく泣きます。
実生活で、自分の身に起きた事で泣くことはめったにないのですけれど、
映画や小説では本当によく泣きます。
けれど、一応TPOはわきまえているつもりで、例えば電車の中で小説を読んでいて、
涙がそこまでやってきていても、それはなんとかこらえられたりするのです。
ちょっとうるうるっとするくらいで、たいていは収まるのです。

読んだ本は、スロウハイツの神様なのですけれど。
月曜日にお昼休憩中に読了したのですね。
その時点で残っているページ数は本当にわずかで、その休憩中に読み終わっちゃうことは分かってた。
その、残ってた分全部に泣かされました。

蕎麦屋でキンドル片手にぼろぼろ泣いている38歳。
側にいたおじさん(知らない人)にすごい目で見られたよ。
わかるよ。私だってなんだろうと思うよ。そんな人がいたら。

なんだかこれもどうしようもなく愛のお話でした。
上下巻で長い小説なのですけれど、丁寧に丁寧に散りばめられた伏線が、ラストで綺麗に繋がります。
その伏線はとてもとてもわかりやすいので、物語においての意外性とかはあまりないのだけれど、
明かされたその最終章あたりの登場人物の心の動きが、行動が、いやあ……よかったです。

クリエイターと呼ばれる人たちが沢山出てくるこの物語ですが、
そういうものを目指したことがある人にとっては
懐かしくもちくちくと胸が痛むようなお話なのではないでしょうか。

私は狩野の気持ちが痛いほどよくわかりました。
あそこまで器用でも才能があるわけでもないのですけれども。

クリエイターとは0から何かを生み出す人のことだと私は思っていて、
私にはどうしてもその部分が足りない。
昔、キャラメルボックスの成井氏が「僕はアレンジャー」と言っていたのと同じ事で、
(キャラメルボックスの上演演目は大抵原作がある。)
アレンジャーはクリエイター足りうるのか、みたいなところで。
それはどちらかというと職人ではないのか、とか。
原作があっても原案があっても、それを原作や原案に忠実にアレンジするのと、
そこに独自の解釈を入れて、それはそれ、これはこれで別の作品にしてしまうのと。
原作やら原案みたいなものがあっても、出来上がるものは様々です。
私はその種を生み出す事が本当に苦手なのですが、種を元にふくらませていくのはとても好きなのです。
当然そこに、私の気持ちや何かも乗ってくるわけで、出来上がったものは私の作品になる。
けれどもやっぱり、それは生み出すのとはまたちょっと違うものだろうと思っています。今でも。

話がそれた。

この小説は、このようなものについてもきちんとしっかり描かれていますが、
やっぱり話しの中心になるのは愛なのだと思うのですよね。
小説によって救われた少女と、その少女によって救われた作家と。
こういうふうにつながる事は、奇跡です。
綺麗に奇跡を描いたところで終わる、本当に素敵な小説でした。




火曜日は長男の高校の入学式でした。
ちょっと特殊な高校へ通う事になった長男。
その特殊さから、入学式の校長先生の式辞にも挨拶にも、
しつこいくらいに「自己責任」という言葉が登場しました。

自己責任というのは、自分で決めて行動したことに対して
きっちりと自分自身で落とし前をつけるということだと思います。
おとなになったら必要不可欠な要素です。
10代の思春期の頃は、色々なことを思って考えて吸収していく時期ですが、
総じてこの自己責任という概念が抜けているものです。

先生がうざい、親がうざいというのは、甘え以外の何者でもない。
今の自分に不満があることを家や親や学校、環境、様々な外的要因のせいにして
自分の不幸を嘆いたり反発したりすることも、甘え以外の何者でもない。
それは、管理されて強制されることに甘んじているから出てくる感情だと思う。

自由とは素敵なものですが、同時に孤独で厳しいものでもあります。

良い学校だなと思いました。
願わくば、長男があの学校で大人になるための第一歩である、
自己責任という言葉をきちんと理解してくれるといいなと。





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